LOGIN瑞礼の脳裏に村で幾度となく囁かれた言い伝えが甦る。
――龍神は恐ろしい。怒れば山を裂き、血の雨を降らす。
――龍神に嫁がされた花嫁は帰らぬ。魂までも、喰らい尽くされる。幼き日の耳に刷り込まれたその物語は白雪より冷たく、闇より深い恐怖として骨髄にまで刻まれていた。
実際に
煙と血の匂いが入り混じるその光景を、幼い瑞礼はただ震えながら見ていた。しかし祈りは天に届かず、血は大地に吸われるだけだった。それでも大人たちは、そうすることでしか災いを退けられぬと信じていた。
やがて成長した瑞礼はいつもその後始末を命じられた。斬り裂かれた獣の
大人たちはそれを当然の務めとし、誰ひとり哀れむことはなかった。
幼い瑞礼の心には龍神への恐怖と共に、村から押しつけられた深い屈辱が刻みつけられていった。――村のため、龍神様のため……。
そう己に言い聞かせ、歯を噛み砕くほどに耐えてきた。 だが瑞白の名が告げられたその瞬間、瑞礼の支えは音を立てて崩れた。彼は長老の足元に崩れ落ち、必死に
「妹だけは……! どうか、妹だけは助けてください!」
白い息が夜に散った。涙は雪に触れて凍り、声は血を吐くように裂けた。しかし長老は氷像のごとく動かず、ただ冷ややかに首を振るだけだった。
「掟は掟だ。龍神様に背けば、村は滅びる。それに……お上の命に抗うことなど叶わぬ」その言葉に、瑞礼の胸は裂けた。村のために耐えてきた瑞礼を、村は一片たりとも顧みなかったのだ。長老も、村人も、誰ひとりとして妹を庇おうとはせず、冷たい雪のように沈黙し、背を向けた。
瑞礼の胸裏には絶えず瑞白の姿が去来していた。
――あの子は無事に雪の闇を越えられただろうか。小さな背が闇に呑まれはしなかっただろうか。旅立つ前、瑞礼は妹に告げた。
「平泉の在地領主の元を訪ねよ」 もうこの世にいない両親がいつの日か語っていた――遠い昔、血の縁を残した地があるのだと。 けれど瑞礼自身は一度も訪れたことがなく、その記憶は風に溶けた言葉のように朧だった。それはほとんど祈りにも似た、一か八かの策にすぎなかった。雪の闇に消える小さな背、振り返った妹の瞳を、瑞礼はいまも胸に焼きつけている。その微笑は薄氷のように脆く、凍てつく風に吹かれればたちまち砕けてしまいそうだった。
それでも――自分がここで贄となれば、せめて妹だけは生き延びられるはず。そう信じて、この場所に立っている。胸裏に去来するのは妹を案ずる思いと、自らを贄に差し出した決意。けれど現実に目を戻せば、眼前に立つのはあの伝承に語られた怪物ではなかった。
血を啜る鬼でも、魂を呑む魔でもなかった。――ただ孤独そのものを纏う、美しき存在だった。
恐怖と共に抗いがたい熱が胸に広がっていく。――自分は妹を守るためにここへ来た。なのに、なぜ心はこの男の姿に縫いとめられてしまうのか。
雪の中で振り返った妹の瞳と、いま目の前にある紅金の光が一瞬、幻のように重なった。瑞礼は息を呑む。恐怖と戸惑いと、抗えぬ熱に胸を灼かれながら。 喉が脈を打ち、血が逆流するように身体が痺れた。妹を想う切実な祈りと龍神への抗えぬ引力とが、胸の奥で
――まるで瑞白に抱く想いと同じように。いやそれ以上に、この男には言葉では測れぬ縁の深さを感じる。
初めて出会ったはずなのに、あの瞳を遠い昔から知っていた気がした。その錯覚が瑞礼の胸を静かに灼いた。 ――心に降り積もっていた雪が、音もなく崩れ落ちた。龍泉神社の境内は、しん、と静まり返っていた。 雪解けの水音だけが響く中、突如として上空から光の風が舞い降りた。 風圧に煽られ、積もっていた雪が桜の花びらのように舞い上がる。その中心に、二つの影が音もなく降り立った。「……あ……」 拝殿の掃除をしていた瑞白が、手にした桶を取り落とした。 カラン、と乾いた音が響く。彼女は目を見開き、腰を抜かしたようにその場へ座り込む。 視線の先には、兄である瑞礼と、その腰を抱いて支える、人ならざる美貌の男――緋宮がいた。「兄、さま……?」 瑞白の声が震える。兄が無事だったことへの安堵よりも先に、その隣に立つ圧倒的な存在への畏怖が勝っていた。白衣をまとい、金紅の瞳を持つその男は、美しくも恐ろしく、人の世の者とは思えなかったのだろう。「瑞白、怖がらないで」 瑞礼が緋宮の腕から離れ、妹の元へ駆け寄った。「俺だ、瑞礼だ。……約束通り、戻ってきたよ」「兄さまっ!」 瑞白は兄の胸に飛び込み、その温かさを確かめるようにしがみついた。「よかった……本当によかった……! でも、あの方は……?」 瑞白が恐る恐る視線を向けると、緋宮はふっと表情を緩め、穏やかに言った。「……驚かせてすまぬ。俺は緋宮。お前の兄の……連れ合いだ」「つ、れあい……?」 瑞白が目を丸くする。 その時、社務所の奥から出てきた老神職が緋宮の姿を見るなり、はっと息を吞み、その場に深く平伏した。「……まさか、伝説の龍神様ご自身であらせられますか」 震える声に、緋宮は穏やかに頷いた。 その言葉に、瑞白は息を呑んだ。「りゅう、じん…&helli
水の音がする。 ぽちゃん、ぽちゃんと、岩肌を伝う雫の音。 それはかつて、石室の御井を想わせる絶望の響きだった。けれど今は、母の胎内にいるような安らぎを帯びて聞こえる。 気がつくと瑞礼は寝台の上に横たわっていた。 胸の傷口に、温かい手のひらが当てられている。そこから流れ込む熱流が、砕けた骨を繋ぎ、裂けた肉を塞ぎ、失われた血を補っていく。「……眠れ、瑞礼」 耳元で、愛しい声が囁いた。「傷など、俺が塞いでやる。目が覚めた時、痛みはすべて過去の雪解け水となって消えているだろう」 その声の主を確認しようとまぶたを持ち上げようとしたが、心地よい睡魔がそれを許さない。――ああ、暖かい。 芯まで凍りついていた身体が、春の日差しに晒された氷柱のように、溶かされていく。 瑞礼は抵抗をやめ、深く、長い眠りの底へと落ちていった。それは、この世に生を受けてから初めて味わう、本当の意味での安眠だった。* * * ふと、ひんやりとした感触で目が覚めた。 額に乗せられた濡れ布巾が、熱を持った頭を心地よく冷やしてくれている。 鼻をくすぐるのは、カビや湿気の臭いではなく、干したばかりの布団のような日向の匂い。 瑞礼はゆっくりと目を開けた。 見慣れた天井。緋宮と夜を過ごした、龍ノ淵の寝殿だ。 だが、かつてのような陰鬱な空気はない。部屋の隅々まで清浄な気が満ち、几帳の向こうからは柔らかな水晶の光が差し込んでいる。「……お目覚めですか」 鈴のような声と共に、額の布巾が交換された。瑞礼が視線を向けると、そこには一人の侍女が控えていた。 この地に花嫁として訪れた日、寝殿を案内してくれた女。 だが、その姿は以前とは違っていた。 秀衡の屋敷で見た、あの泥にまみれた悍ましい傀儡の面影はない。その身体は淡い光を帯び、どこか誇らしげで、そして嬉しそうに微笑んでいる。
猛吹雪の中、秀衡は後退った。顔からは血の気が失せ、唇は恐怖で青ざめている。だが、その眼光だけはまだ死んでいなかった。 長年、権謀術数渦巻く乱世を生き抜いてきた男の執念が、恐怖をねじ伏せている気配。「侮るなよ……! 儂はこの地の主ぞ! 畜生ごときに屈してたまるか!」 秀衡は両手を地面に突き立てた。 指先からどす黒い気が大地へと注入される。「起きろ! この地の底に眠る無念どもよ! 貴様らの怨みを形にせよ!」 地面が音を立てて隆起し、汚泥が噴き出した。 それはただの土砂ではない。腐った肉と脂が混じり合い、無数の人の手、人の顔が浮かび上がった冒涜的な濁流だった。地脈を穢して行使する外法。この土地そのものを人質にとった、秀衡の切り札。 泥の波が、鎌首をもたげた大蛇のように緋宮へ襲いかかる。鼻が曲がるような死臭が、雪の冷気を汚染していく。 だが、緋宮は動かなかった。 避けることもしない。ただ、冷徹な金紅の瞳で、迫りくる泥を見下ろしている。「……汚らわしい」 緋宮が指先を軽く振るう。 鎌鼬のような風が走り、泥の大蛇を真っ二つに切り裂く――いや、違う。 泥が、空中で停止した。 襲いかかろうとした形のまま、瞬時に凍結したのだ。無数の怨念の手も、叫び声を上げる顔も、すべてが氷の彫像へと変わり果てる。「なっ……!?」「次はお前の首だ」 緋宮の瞳孔が縦に裂け、人の形を保ったまま、その影が巨大な龍の形へと歪む。 圧倒的な捕食者の気配。 緋宮の手のひらに、蒼白い冷気の槍が形成される。それを放てば、秀衡の体は魂ごと氷砕され、永遠に輪廻の輪から外されるだろう。「ひっ、ま、待て……!」 秀衡は腰を抜かし、這いずって逃げようとした。 その背が、屋敷の板塀にぶつかる。「やめろ……! 儂はこの奥州を治めて
「瑞礼……っ!」 緋宮の腕が、崩れ落ちる瑞礼の身体を抱き止めた。 その感触は夢ではない。確かな質量と、凍えるような冷気の中に混じる、焦げるような体温がそこにあった。「……ひぐう、さま……」 瑞礼は名を呼ぼうとしたが、喉の奥からごぼりと熱いものが溢れ、言葉を塞いだ。 視界が赤い霧に覆われていく。 自ら引き抜いた刃の傷口から、命がどくどくと流れ出しているのがわかる。左肩の刻印が放つ熱だけで、かろうじて魂を肉体に繋ぎ止めている状態だ。 指先ひとつ動かせない。 瑞礼は緋宮の胸に力なく頭を預けた。 耳元で、緋宮の心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。それは恐怖の動悸ではない。千年の封印を内側から食い破り、噴出点を探して暴れ狂う、破壊神の脈動だった。「……しっかりしろ、瑞礼! お前はいつもっ……」 緋宮の声が震えている。 彼は瑞礼の胸の空洞を認めると、一瞬息を呑み、次いでその顔が能面のように凍りついた。 哀しみではない。それは、世界そのものを呪うような、絶対零度の憤怒。 緋宮がゆっくりと顔を上げる。 その金紅の瞳の先には、腰を抜かして後退る兵たちと、青ざめた顔で立ち尽くす秀衡の姿があった。「お、お前ら! あの二人を取り押さえよ! 龍神は手負いだ!」 秀衡が焦りを滲ませた声で叫ぶ。 だが、兵たちは誰一人として動けなかった。彼らの生存本能が警鐘を鳴らしているのだ。目の前にいるのは、手負いの獣などではない。決して触れてはならぬ天災そのものであると。「……貴様ら、もう許さん」 緋宮の声は低く、地獄の底から響く地鳴りのようだった。 ふっ、と周囲の音が消えた。風の音も、兵士の呼吸音も、すべてが凍りついたかのような完全なる静寂。 屋敷の庭の温度が一気に下がる。吐く息が白く凍り、瑞礼の流した血だまりが瞬時に赤黒い
――しゃらん。 胸元の小鈴が、外界の音ではなく、魂の深淵で鳴り響いた。 その清冽な音色は波紋となり、死へと沈みかけていた意識を強引に引き上げる。 刹那、雷に打たれたような衝撃が、止まったはずの心臓を内側から殴りつけた。 鼻孔を満たしていた泥と鉄の腐臭が吹き飛び、肺腑に流れ込んできたのは、針のように冷たく澄んだ雪の匂い。 戦場の熱狂も、叫びも、燃える森の記憶も、遠い夢のように霧散した。 代わりに戻ってきたのは、胸を焼く灼熱の激痛と、血管を駆け巡る奔流のような生命の熱さだ。 瑞礼は、ゆっくりと目を開いた。 視界にあるのは、どこまでも白い雪空。 そして、数歩先で鎖に繋がれたまま呆然と立ち尽くし、頬を濡らしている緋宮の顔。 己の胸には、未だ白刃が深々と突き刺さっている。 心臓を貫いた刃は、確実に生命の糸を断ち切ったはずだった。肉体という器は壊れ、本来ならば、今は冷たい骸となっているはずだった。 ――だが。 瑞礼の意識は、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冴え渡っていた。 どくん、どくんっ。 心臓が、破壊された肉の檻を叩き直すかのように、力強く脈打ち始める。 かつての蝦夷の里。泥にまみれた戦い。 不器用な龍神との口づけ。そして、冷たい淵の底で交わした、魂を焦がすような最期の約束。『龍ノ淵で……待っていて』 瑞礼の瞳に、誓いの光が戻った。 それは死に行く者の虚ろな光ではない。悠久の時を彷徨い、泥と血の底から這い上がり、ついに己が半身を見出した、揺るぎない覚悟の赫灼たる輝きだった。「……ぐ、ぅ……」 瑞礼の口から、血の泡と共に呻きが漏れた。――死んでなるものか。 こんなにも長い間、緋宮を待たせたのだ。あんなにも暗く冷たい水底で、狂うほどの孤独に耐えさせたのだ。 ここで死んでしまえば、あの約定はどうなる。緋宮の千年の献身が、すべて無駄になってしまう。「……ほう」
世界が、凍りついていく。 緋宮の口から吐き出される冷気そのものが、龍ノ淵の闇を切り裂いた。 それは慈悲なき断罪を思わせる白い光を放っていた。彼を中心に発生した冷気が物理法則を無視して爆発的に膨張し、崖上の朝廷軍までをも飲み込む。「ひっ、あ、あ……っ!?」「に、逃げろ! 退却だっ!」 逃げようと背を向けた兵士たちが、次々と氷像に変わる。悲鳴さえも凍結し、砕け散る。 崖の上で呪文を唱えていた陰陽師たちも、自らが展開した結界ごと凍りつき、玻璃細工のように崩れ落ちていった。 ――圧倒的な蹂躙。戦いですらない。神が、不敬な人間という種を間引きしているだけの、一方的な災害だった。「虫螻どもが……滅びよ」 緋宮が冷徹に告げる。 その身体はすでに半ば龍へと変じていた。赤金の鱗が陽光を弾き、金紅の瞳がこの世のすべてを見下ろしている。 彼の腕の中には、事切れた瑞礼が抱かれている。その亡骸だけが、この凍てつく地獄で唯一、優しく守られていた。「我が半身を奪った報いだ。……この国ごと、氷の底に沈めてやる」 緋宮が片手を掲げる。 大気が悲鳴を上げた。上空に渦巻く猛吹雪が凝縮され、巨大な氷の塊――都市ひとつを粉砕できるほどの質量を持った隕石となって顕現する。 これを落とせば、胆沢の地は消滅する。いや、その余波は日ノ本全土を冬の時代へと閉ざすだろう。「待ってくれ……! 鎮まりたまえ、龍神よ!」 氷の嵐の中、ただ一人立っている男がいた。 坂上田村麻呂だ。 彼は全身に氷柱をぶら下げ、弓を杖にして辛うじて立っていた。その顔には、初めて恐怖と後悔の色が浮かんでいた。「これ以上の殺戮は……瑞礼殿とて望んではおらぬはずだ!」 田村麻呂の必死の叫びが、暴風にかき消されかけながらも、緋宮の耳に届く。 緋宮は侮蔑