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6話 血と雪の記憶

Auteur: 白蛇
last update Date de publication: 2025-10-31 16:23:51

 瑞礼の脳裏に村で幾度となく囁かれた言い伝えが甦る。

 ――龍神は恐ろしい。怒れば山を裂き、血の雨を降らす。

 ――龍神に嫁がされた花嫁は帰らぬ。魂までも、喰らい尽くされる。

 幼き日の耳に刷り込まれたその物語は白雪より冷たく、闇より深い恐怖として骨髄にまで刻まれていた。

 実際に飢饉ききんが訪れ、田畑が灰のように枯れたときも。あるいはえやみが流行り、子らの亡骸が雪の上に並んだときも。

 人々はそれを龍神の怒りと恐れ、炎を掲げて火送りを行い、獣の血で雪を染めた。

 煙と血の匂いが入り混じるその光景を、幼い瑞礼はただ震えながら見ていた。しかし祈りは天に届かず、血は大地に吸われるだけだった。それでも大人たちは、そうすることでしか災いを退けられぬと信じていた。

 やがて成長した瑞礼はいつもその後始末を命じられた。斬り裂かれた獣の臓腑ぞうふを雪から拾い、腐った肉を土に埋め、血の染みた藁を運ぶ。

 凍える指にこびりついた鉄の匂いは幾度洗っても落ちず、夜ごと夢の底で再び鼻を刺した。

 大人たちはそれを当然の務めとし、誰ひとり哀れむことはなかった。

 幼い瑞礼の心には龍神への恐怖と共に、村から押しつけられた深い屈辱が刻みつけられていった。

――村のため、龍神様のため……。

 そう己に言い聞かせ、歯を噛み砕くほどに耐えてきた。

 だが瑞白の名が告げられたその瞬間、瑞礼の支えは音を立てて崩れた。彼は長老の足元に崩れ落ち、必死にひざまずいた。

「妹だけは……! どうか、妹だけは助けてください!」

 白い息が夜に散った。涙は雪に触れて凍り、声は血を吐くように裂けた。

 しかし長老は氷像のごとく動かず、ただ冷ややかに首を振るだけだった。

「掟は掟だ。龍神様に背けば、村は滅びる。それに……お上の命に抗うことなど叶わぬ」

 その言葉に、瑞礼の胸は裂けた。村のために耐えてきた瑞礼を、村は一片たりとも顧みなかったのだ。長老も、村人も、誰ひとりとして妹を庇おうとはせず、冷たい雪のように沈黙し、背を向けた。

 瑞礼の胸裏には絶えず瑞白の姿が去来していた。

――あの子は無事に雪の闇を越えられただろうか。小さな背が闇に呑まれはしなかっただろうか。

 旅立つ前、瑞礼は妹に告げた。

「平泉の在地領主の元を訪ねよ」

 もうこの世にいない両親がいつの日か語っていた――遠い昔、血の縁を残した地があるのだと。

 けれど瑞礼自身は一度も訪れたことがなく、その記憶は風に溶けた言葉のように朧だった。それはほとんど祈りにも似た、一か八かの策にすぎなかった。

 雪の闇に消える小さな背、振り返った妹の瞳を、瑞礼はいまも胸に焼きつけている。その微笑は薄氷のように脆く、凍てつく風に吹かれればたちまち砕けてしまいそうだった。

 それでも――自分がここで贄となれば、せめて妹だけは生き延びられるはず。そう信じて、この場所に立っている。

 胸裏に去来するのは妹を案ずる思いと、自らを贄に差し出した決意。けれど現実に目を戻せば、眼前に立つのはあの伝承に語られた怪物ではなかった。

 血を啜る鬼でも、魂を呑む魔でもなかった。――ただ孤独そのものを纏う、美しき存在だった。

 恐怖と共に抗いがたい熱が胸に広がっていく。

――自分は妹を守るためにここへ来た。なのに、なぜ心はこの男の姿に縫いとめられてしまうのか。

 雪の中で振り返った妹の瞳と、いま目の前にある紅金の光が一瞬、幻のように重なった。瑞礼は息を呑む。恐怖と戸惑いと、抗えぬ熱に胸を灼かれながら。

 喉が脈を打ち、血が逆流するように身体が痺れた。妹を想う切実な祈りと龍神への抗えぬ引力とが、胸の奥で幾重いくえにも絡み合う。

 ――まるで瑞白に抱く想いと同じように。いやそれ以上に、この男には言葉では測れぬ縁の深さを感じる。

 初めて出会ったはずなのに、あの瞳を遠い昔から知っていた気がした。その錯覚が瑞礼の胸を静かに灼いた。

 ――心に降り積もっていた雪が、音もなく崩れ落ちた。

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